ホリスレンの前身

By horithren.com,

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前回のお話し続きの前に

弊社代表の私は今56才です。8年前に妻が亡くなり、一人息子は今、東大病院で後期研修医をしており無茶苦茶忙しい様子でもあり、男同士の親子で話すこともないのでしょうが一切の連絡がとれません。この先、息子と顔を合わせるのは彼の結婚式と私の葬式の2回くらいではないかと思っています。父親の仕事とは言え、医師が私の仕事に関われることはないでしょうし、弊社の現在と未来は社員やお取引先様に支えられることになるでしょう。前回の第二事業部の事もさることながら、私が聞かされてきた弊社の様々なことをこちらに記しておこうと思います。
まずは昔から現在に至るまでの経緯を簡単に記しておきたいと思います。

先々代 堀六蔵 ~
祖父、堀六蔵は堀六という染屋をしていました。私は会ったことはありません。私が生まれるはるか前に亡くなりました。祖父の命日が私の誕生日です。
昔の職人ですから気も荒かったようです。元気な時はそれなりに儲けていたようです。聞くところによると当時(戦前)は機屋と染屋で、料亭で芸者を挙げてどんちゃん騒ぎをして仕事をまとめるというのも大事な仕事だったらしいです。父は料亭に連れて行かれ半玉(花柳界における年少芸妓、芸者見習い)に、よくお守りをされていたと言っております。
やがて東亜を鬼畜のような侵略者から解放するための戦争(米国の言うところの太平洋戦争)が始まります。国民総力戦ということで、繊維産業は平和産業だから国家の役には立たない、国民は軍需産業に就くべしとの国の方針で祖父も染色業をやむなく廃業、徴用工として中島飛行機製造工場(現在のスバル自動車)に工員として働きに行き1945年の敗戦まで、桐生から太田までの15kmの砂利道を朝6時に家を出て夜10時に帰宅という生活を4年間続けたそうです。そのような生活が終わりを告げる頃、その頃から少し目がかすむと言っていたようで、戦争が終わり眼科医に診てもらったら緑内障と言われ、その後1年ほどで目が見えなくなってしまいました。平和になったらまた染屋が出来ると意気込んでいた夢も儚く終わり、徴用工としてのきつい仕事の故だったのか、その後まもなく祖父は54才の生涯を閉じ、それまでのおぼっちゃまは赤貧の生活に落ちてしまいました。真冬でも素足に下駄を履くような生活しかできなかったそうです。
家業が染屋だったこともあり、やがて父は機屋の中にある染場に働きに出ました。

先代 堀照尉
父は勉強が好きだったそうです。父が子供の頃住んでいた近所に赤間様という名士がおられ、その方が祖父のところに、私が責任と面倒を見るから照尉くんを東京の学校に上げさせてもらいたいと頼みに来てくれたそうです。ですが祖父は、息子は染屋にするのだから学問なんかいらないと断ってしまいました。赤間様から今夜話があって祖父のところに行くからと聞いていた父はその話を聞いて喜んだのもつかの間、その申し出を自分の父親が断ってしまい、たいそうがっかりしたそうです。赤間様のお宅には本がたくさんあり、勝手に好きなように本を読んで良いと言われていたそうです。祖父が亡くなったらまた赤間様が今度は祖母のところに同じお願いに来ました。祖母は心優しい人ではありましたが、一人残されてしまうのが嫌だったのでしょう、行かないで欲しいと父に頼んだそうです。祖父と祖母には子供がなく、父は養子でした。もし実の子供ならその両親は同じことを言ったのだろうかと言っていたことがありました。赤間様の眼力がどうだったのかはわかりませんが、私利私欲ではなく人を育てようとしていたのでしょう。因みに桐生にある現在のみやま園(桐生市社会福祉協議会の施設)が出来たのは赤間様の尽力によるところが大きかったそうです。
機屋の染場にしばらく勤めた後、仕事をしながら夜、定時制高校に行きたいとお願いしたのですが、しばらくは行かせてもらえなかったそうです。実績を示し、やがて認めてもらえ桐生工業高校の定時制に通うことが出来ました。その後4年間、高校を出してもらったお礼にと働いたのち25才で退職し独立します。
・・・つづく